昭和49年10月02日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかに有難そうに、心経やお払いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり節を付けたりせんでも、人にものを言う通りに拝め。」

 色々なお参りにも、障害が起きて来る事がある。問題は、お参りしなければ居られんのであり、拝まなければ居られんのであり、お礼を申し上げねば居られんのであり、願わずには居られんのである。お詫びをしなければ居られんのであり、私はそういう信心が身に付いて来る時に、本当の信心が出来て来ると思うですね。そこの所を願うて下さっての御理解だと思うです。
 ですからもう今日はちょっと差し支えがあるから、又は今日は雨が降るから、風が吹くからと言うくらいな信心ではならん。それこそ雨が降ろうが日が降ろうが、矢張りお参りしなければ居られないというのである。それが大体本当の信心の姿だとこう思います。ですからそこまで信心がいわば、有難うならなければいけんのです。昨日の朝の御理解じゃないですけれども、とにかく信心は有難うならせて頂く稽古なのですから。
 これは私はもう何時も思うんですけれども、まあこうやって何時もここへ座らせて頂いておりますから、外へ出て運動するという時間がありません。ですから日の内何回かここを立たせてもろうて、お手洗なんかに立たせてもらいますけれども、お手洗も私専用のお手洗を使いますから、一番奥まで行かなきゃなりません。その行かせて頂く事が非常に楽しみです。長い廊下をずうっと歩かせて頂いておると、もう歩かせて頂いておると云う事が、本当に有難いです。
 皆さんもう歩かせて頂いとると云う事を本当もう有難い事ですよ。そして走りでも出来るなら、愈々有難い事ですよ。私ももう十年もなりましょうかね。足が萎えてしもうて立てなかったり、歩けなかったりした時代が御座いましたから。だから尚更それを深く思うのかもしれませんけれども、これは歩くだけの事ではありません。手が動いておると云う事でもです。もう私は自分でここから廊下を歩いて行く時にです。何と申しましょうかね。本当に足が関節が曲がっておると云う事ですね。
 歩くうちにもうそれを感ずるです。もうこの節々にです。こうやって突っ張ったまま曲がらんなら、でけませんからね。それがもう歩く道道。それを感ずる。何時も感ずるです。歩かせて頂くと云う事の有難いと云う事。まぁ一事が万事にそうですね。お食事が美味しく頂けると、もうとにかく有難いとお礼を申し上げる事は、一杯なんですけれども、その有難いと言う物が身に付いてくる。そこになら感謝の心が生れて来る。有難いお礼を申し上げなければおられない。
 そのお礼を申し上げねばおられない心がです。私は神参りと云う事になるのです。又は御祈念、拝むという事になるのです。必ずしも朝と晩だけに決まっとりません。御祈念は。有り難いなあと心から有難いものが出た時に、御祈念をしてご覧なさいませ。もう本当に有り難い。それこそ神様が一つ一つ聞き届けて下さると云う様な気が致します。そういう有り難い時に、御祈念せねばいけません。もうそれこそ今日の御理解じゃないですけど、人にものを言う通りに拝む事もいりません。
 ずうっと心の中に思うただけで良いです。有り難い時には。所が心に雑念が起こったり、いろんな心配があったりする時にです。矢張り大きな声でも出さしてもらわなければ、それを言うなら心の雑念とか心配とか不安とか、打ち払うためにも、矢張り大払いを上げるにしても、一心不乱に、一生懸命大きな声を。だから大きな声をしてはいけないというのではないです。言うならば人にもの言う通りでも、神様には受け取って下さるし今私が申しました。
 私は朝の御祈念なんかは、第一拍手も打ちませんでしょうが。もうあそこへ祝詞座へ付いたとたんに、頭を下げたら、もう神様と交流してるです。その変りそれまで三十分間ずーっと、神様を思いに思い続けとります。私があそこに座ると、神様の方がその先に話し掛けて下さる様な感じです。だからそういう有難い時の御祈念ならね、人にもの言う通りにもの言う事もいらねば、言葉に出す事も何も要りません。
 心の中に思うただけで、神様が受けて下さる。神様が受けて下さる所にです。言うならば信心さして頂く者の、まあ嬉しさ有り難さがありますと同時にです。確信心と言う物がおかげになる。例えばおかげになると云う様に、もう神様が一切に引き受けとって下さるという心が起こって来るのです。有り難くも何もない時には、いくら拝んだっちゃ神様がね、もうこっちを向いても下さらん様な気が致します。
 聞いて下さるか聞いて下さらんか分からない。本当に例えばお水を使わせて頂きながらでも、不思議な事で不思議で不思議でたまらない。その言うならばひとすくいの水にでも、そういう有難い心が湧いて来る時にはです。もう御祈念するがいいです。神様の前に出るが良い。もう有難いと思う時に、神様にお願いをするが良い必ず有難い時に、御祈念をすると言う事が、一番効果的というちゃおかしいですけどね。矢張り効果的です。又それに響いて帰って来るんです。
 所謂雨が降るから風が吹くから、えらいと思うてはならぬと。えらいと思う段じゃない。かえって有難いと云う様なね、心。そこには言わば拝まなければおられん。お礼を申し上げなければおられないと言う物がです。段々出来て来る所から、もう雨とか風とかは問題じゃなくなって来るのです。もうそれを口実にして丁度お湿りにたたられて、参りが出来なかったとかこういう事情こういうと、まあ色々言い訳はあります。
 昨日一昨日でした。久富先生と家内と何時も三人でお食事をさして貰うのです。そこへ秋永先生が参拝して見えました。前の日が生誕祭でしたから、遅うまでおられたけれども、とうとうお届けをする時間が、私に直接お届けする時間がなかったからと言うてみえました。一昨日の夕方から梅屋さん一門、京都の見本展か何かに、京都に今行っております。京都行きのお届けを、日頃の秋永先生に似合わない。
 どちらかというならああいうまあ、ドライな方ですから、お届けはせんでん神様はちゃんと知って御座ると言った様な感じでしたけれど、昨日お届けが出来なかったからというて、言うならわざわざ福岡から、ただその事だけをお届けに見えました「そんなら、お食事を一緒に」と言うたら「いえ。もう時間がないから。夕方の何時何分の汽車でたたねばなりませんから」と。
 「なら、お茶だけでも頂いて下さい」と言うて、そういうぎりぎりのね、もう京都行きの時間に、やっとかっと合楽にお届けに来る時間がやっとというのにでも、矢張りお礼じゃない。お届けに見えました時に、私が光という字を頂いたです。だから信心というものは、本当にデリケートというか不思議ですね。もう普通ではお参りが出来そうにもないけれども、矢張りお参りしなければおられない。お届けをしなければおられない。そういう時にです。矢張り光になる。
 雨が降るから風が吹くからえらいと。普通の者なら思う所をそこを押して参って来るとか、もうそう言う事は全然問題じゃないと言う程しの、そこの所に言うならば神様の御信用と言う物が頂けるのじゃないでしょうか。それこそ小原節の文句じゃないですけれども、「雨の降る日はおじゃるなというに、濡れておじゃれば、なお可愛い」同じ心理状態です。神様の心も同じです。
 今日のごたるお参りしてこんでも、それでも矢張り参ってこにゃあおられないと言う物を、こげな雨の降る日に参って来んでもと言いながら、矢張り嬉しゅうてこたえんですね。神様は嬉しかろうと思うです。だからそういう一つの理をね、踏まえて信心をさしてもらう。最後の所に節を付けたり、声を出したりせんでも良いと言われるけれども、成程人にものを言う通りという事もいらん。自分の心の中に思うただけでも、心が有難い勿体ないというた時には、通ずるです。
 こちらは物も言わんで御祈念しよるとに、神様の方がもの言いかけて下さる。神様が喜んで下さるのがよう感じられる。その神様の喜びと、私共の喜びとが交流する所にです。信心の一番有難いとでも申しましょうか、味わいとでも申しましょうか。そういう味わいが分かって来る様になりますとです。降るから照るから。こういう事情で御座いますからと言う事は、無くなって参りましょう。お参りしなければおかげにならんからと。もう笑い話の様な訳ですけれども、二十年も前だったでしょうか。
 北野からもうお湿りのある時に、下は御広前に座れんごとごっくりなって、何人か参って見えたですよ。それこそ「わぁこげな雨降りに」と申しましたら、「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃという御理解を、何時か頂いとったから、今日のごたる日に参ったなら、いっちょお徳を受けるじゃろうと言うて参ってきた」と言うた人がありました。日頃参って来んで、雨の降る日だけ参ってくる。そういう意味のものではないですね。
 日頃は、勿論お参りが出来ると。それでなら雨が降るから風が吹くからという事は、人生の上にも、雨もあれば風もある。いろんな都合があるけれども、その都合を工夫すると云う所に、修行があるのです。それを乗り越えると云う所に、修行があるのです。その修行こそが身に徳、ただ雨の降る日だけ参って来る。ねぇごつか。人生の雨だ風だ。まあ自分ではどうにも出来んから、神様になっと。お願いせにゃというて参って来るというのが、身に徳を受けるというのじゃないです。
 それは自分の言うなら得手勝手の様なもんです。そこで何よりもまずはです。歩かせて頂くと言う事に対してでもです。もう本当に不思議で不思議でたまらん。手がこうやって動いとる。足が動いとるというだけでも有難い。その有難い心で、私はお参りして来る。これが最高です。勿論御祈念もです。心の中に有難いなあと、心に浮かんだらね。もうそれこそ、その柱を目当てにでも良いです。床柱を目当てにでも良いです。山にいるなら、山の木を目当てにでも良いです。
 そこで拍手して御祈念をしてご覧なさい。もう神様が一々うなずいて下さる感じが、こちらに響いて来るです。その響いて来る事がね確信。神様を愈々信ずる事が出来れる。心の状態が愈々出来て来る事になるのです。もう信心程微妙なというか、デリケートなものはありません。もうちょっとの心の些細な動き一つでも、神様が見逃しなさいません。それが例えば有難いという心である場合に尚更の事、その有難い心で御祈念する。お参りをしなければおられない。
 その心で雨が降ってもそれこそ風が吹いてもです。それは確かに私共も体験があるんですけれども、そういう時にお参りをすると、確かに余計に有難いですね。本当にだからそれをむしろ楽しみになってくるようにねおかげを頂きます。所が私共はそう何時もかつも、有難いと言う事ばかりはないのではないのですから、そこに神様と交流する手立てとして、御祈念と言う事になって来るのです。
 そこでそういう時にはです。矢張り拍手も澄み切った大きな音の立つ様な拍手を打たせて貰い、大祓いでも天津祝詞でも、腹の底から一つのリズムができて来る様なリズム感がある大祓いを上げさせて貰うと、そのリズムにのった大祓い。自分の上げておるその声に、自分が酔う様な事があります。今私は総入歯になりましたからね、何か入歯に引っ掛かってから、全然思う様な声が出ませんけれどね。
 もう以前は大祓いを、もう五巻上げ十巻上げ、もうとにかく自分の上げておる声に聞き惚れ聞き惚れね。大払いを上げておる。一つのもうリズムっておる。節を付けんでも良いと言われるけれども、矢張り合楽には合楽流の節がありますね。大祓いの節がありますよ。あれは一つのリズムですから、そのリズムにのって、ずっと御祈念をさして頂いておりますと、もう何にもなくなって来る。
 その何にもない有難い心で、いろんな願い事を、お礼事を又は、お詫び事をさして頂くのですから、愈々有難い御祈念ができるようなものです。そういう稽古もなさらなければいけない為には、先ず矢張り天津祝詞も、大祓いも拝詞も、早く暗唱さしてもらえれるおかげを頂かなければいけません。お参りも只今申します様に、そう有難いからお礼参りせにゃおられないという時ばかりは御座いませんけれども。
 たまたま雨が、今日のように雨があり風があるという時にはです。今日の様な日にこそお参りさせて頂く。その辛抱こそが身に徳を受ける修行じゃと教えられるのですから、そういう雨風の様な日をです。選んで参るというのではなくて、そういう日は、愈々有難くお参りできれるくらいの所までは、信心を進めたいもんですね。
   どうぞ。